※私自身の古い手記から引用します。
幸せという言葉について、どのように考えるでしょうか。
私自身、幸せという言葉の意味について大いに悩まされてきた一人です。
なぜなら、「幸せとは人それぞれ」という言葉が示すように、
人が「幸福感」を感じる状況というのは千差万別であるからです。
ただし、人間を理解しようとする限り、この幸福論を欠かすことはできません。
なぜなら、人間とは常に、その行動の背景は幸福追求であるからです。
例外はありません。
リストカットなどを始めとする「自傷行為」や「自己嫌悪」も、幸福追求の形に含まれます。
(自己承認や、自己実現の裏返しと言えます……が、詳細は、ここでは省略します)
であるならば、人が幸せと呼ぶものとは何なのか。
今回の話は、それについて論じてみたいと思います。
結論すれば、
「幸福感」は人それぞれ、ではありますが、
「幸福」については明確に定義することが可能です。
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幸せには、二つ存在します。
一つは、「相対的幸福(比較できる幸福)」です。
もう一つは、「絶対的幸福」です。
さらに結論から述べてしまうなら、
相対的幸福=苦しみが「少ない」状態
絶対的幸福=苦しみが「生じない」状態
であるといえます。
では、それぞれ取り上げてみたいと思います。
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まず、比較できる幸福、これを相対的幸福、という言葉で表現します。
相対的幸福とは、一般的に言う物質的幸福、あるいは外的環境に依存する幸福、と定義することができます。
すなわち、
・広い家に住む
・好みの異性と過ごす
・金銭的自由を手に入れる
・権力を手にし、組織や人間関係を自由に動かす
このように環境によってもたらされる、欲求が実現できている「状態」。
これらが、相対的に幸福である状態、ということができます。
その際、私たちの欲求は、ある一つの方向に動く性質があります。
私たちの意志は、「自己の苦しみを最小化しようとする」という作用があります。
(方法論は様々です)
すなわち。
(経済的不自由を味わいたくないから)お金を稼ぐ。
(欲求不満であるから)異性を探す。
(孤独感があるから)友人を求める。
(組織の制約が耐えがたいから)独立する。出世する。
(人生経験を得たいから)旅行に出る。
このように、私たちは「不足・欠乏」すなわち「苦しみ」を、(自覚の有無にかかわらず)抱えており、
意志は、「苦しみを最小化しようとする」という原理の下に、
それを埋め合わせるために私たちを「行動」へと駆り立てます。
その、「苦しみの最小化」がうまくいっているということは、
「欠乏・不足がない」すなわち「満たされている」ということであり、
その状況をもって、一般的に「幸せ」という状態が形成されているのです。
ゆえに、「お金持ち」は、「貧乏人」に比べて、経済的不自由を経験しなくていい分において、相対的に幸福であるといえます。
「友人が多い人」は、「孤独な人」に比べて、人間関係の孤独を感じなくていいという意味において、相対的に幸福であるといえます。
「なにもかも満たされている人」は、自覚している限りの不足や欠乏を埋め合わせ終わった人、ということになるでしょう。
一般的に言う「向上心」についても、この論理で説明することができます。
向上心とは、目標や理想に対して「上」という定義を与えることで、
相対的に自分の状態を「下」とみなして、
「不足」を自覚するということです。
その「不足」を埋め合わせるために行動が始まります。
一般的に、それが努力家と呼ばれる人種の心理です。
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では絶対的幸福とは。
これは読んで字の如く、絶対の幸福、ということになります。
すなわち、環境に依存しない幸福感ということになります。
苦しみが、生じない状態。
想像を絶する価値観ですが、
それがあるとすれば、どういう状態でしょうか。
すなわち、自己の苦しみを滅した状態ということになります。
では、自己の苦しみを滅するにはどうすればよいでしょうか。
その答えは、
「欲求を無くす」「自我を滅する」ということです。
すなわち、不足感や欠乏感を感じる欲求自体を、停止させるということ。
欲求を停止させるには、欲求を生起させる心を停止させること。
それが、絶対的幸福の回答となります。
それによって、求めることがなくなるので、
不足や欠乏は生じません。
ゆえに、いかなる環境に対しても「欲求する」ということがないので、
「満たされない」ということが生じません。
実はそれこそが幸福感の究極の姿であるということです。
幸せを求めようとする、エゴを停止させた時にこそ、
絶対的な幸福が得られる、という結論になります。
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相対的幸福と絶対的幸福の橋渡しとなる幸福感に、
「精神的幸福」というものが存在します。
これは、心が満たされる、という段階を求めるものであり、
絶対ではないにせよ、心の成熟や豊かさを求めることで、心の安らぎを得るという考え方です。
この過程では、自己のエゴと向き合い、そのエゴの次元を高める(欲求を昇華させる)という段階になります。
そののちに、エゴを徐々に崩壊させていくというプロセスに入ります。
この延長上に絶対的幸福があるといってもよいでしょう。
その、精神的幸福の段階として、「利他の実践」が存在します。
他の幸福を追求することで、自己の幸福追求の心を薄めることができます。
それによって、「不足感」が「根本的に」解消されることになり、幸福感を増大させることが可能となります。
(不足感を「満たす」のではなく、「解消する」というところがポイントです)
逆説的に言えば、幸福を追い求めるがゆえに幸福ではない、というジレンマに陥っているということになります。
では、真に幸福になる道とは…
と語ると長いので、今回はここまで。
今回は、極めて極論的な視点から論じてみました。
自分の手記の一部を丸上げしたものに過ぎませんが、面白く読んで頂けたなら幸いです。
あと、今の私自身は
さまざまな人生経験の末に、この主張から先に進んだ思想を持っていることを
申し添えておきます。
すばらしいですね。
ではでは、欲求をなくしたいという欲求はどうすればよいでしょうか?
どうやって、心自体を停止させるのでしょうか?
コメントありがとうございます。
心と脳は連動しています。
脳が正常に動く限り、連動して、心も動きます。
したがって、脳が正常に動いている限り、心そのものを停止させるということは現実的に不可能だと考えられます。
欲求は、それ自体は善でも悪でもないと私は考えています。
その欲求の中、何を選択するのか、その中で学びを得ることに、欲求の意義はあると考えているからです。
抽象的なお返事ですが、参考になれば幸いです。